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これからの医療の話をしよう

日々の診療と世界の路上の間から、日本の医療について思うことを。

透明な人たち 東京都墨田区

隅田川にかかる或る橋のたもと、一軒の古びた病院がある。

最近、ときよりお世話になっている仕事場だ。
この病院、都内で有数の救急車の受け入れ台数らしいが、ERを守るのは常に僕のような非常勤医、一人。
事情も知らないまま、初日からいきなり番頭さんである。

ERとは、様々な不測の事態が生じる現場だ。
怒鳴られる、殴られる、見落とした、態度が悪い、謝れ、訴訟だetc etc。
(全国の研修医の皆さん、ご苦労様です。)
そういう研修医が巻き込まれたゴタゴタの処理をする「ケツ持ち」として、救急科の部長は給料を貰っている。(と僕は理解している。)
そういう責任者が不在でも、日々の業務が成り立つのだろうか?

どうやら大丈夫なようである。

大丈夫な理由が、この病院の客層だ。
トラブルは少なくはない。
けれども、ここでは法廷闘争にもつれこむリスクは限りなくゼロに近い。
何故ならここは、ホームレスと生活保護患者達が運び込まれる病院なのだ。

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搬送されてくる患者の半分以上は、「差し迫った医学的問題※①」はない方々だ。
けれども、想像のとおり「問題」は山積みである。

今月の生活保護を使い切ってしまって、3日間、何も食べていない人。
路上で酔っ払って、寝ていたら通行人に救急要請された人。
警察署の前を行ったり来たりしていたら署内に連行され、その後大声をあげて叫んだのちに急に倒れた人。
彼らはみな共通して、すえた匂いを発し、会話は脈絡がなく、実年齢よりずっと老け込んで見える。

彼らは全身でSOSを表現している。
もはや、うまく言葉にすらできないのだけれど。

その多くは救急搬送の常連さんだ。
思うに、彼らは孤独で、寂しいのだと思う。
救急車を呼んでも、現状は打開されないことは流石にわかっている。
それでも誰かとことばを交わしたくて、呼べば必ず答えてくれる救急車を呼んでしまう。

そんな彼らのことを、僕を含めた病院のスタッフはおしなべて邪険に扱う。
通り一遍の検査だけして、(ときにはそれもせず)ふたたび路上や簡易宿泊所へと追い返す。
「そういうのは市役所の人に相談してね」と伏目がちに答えながら。

確かに、仕方がない側面はある。
病院はホテルじゃない。
生活保護費を使い切った人達を、望むままに入院させていたら
病院はあっという間に満床になってしまう。
(そうやって僕らは、良心の呵責をやり過ごしている。)

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けれども、そんな彼らを、自己責任とか自業自得という言葉で片付けるのも酷だと思う。

Nさんは、この病院の常連さんだ。
自分は電話を持っていないので、何かと理由をつけて通行人にお願いして、救急車を呼んでもらってやってくる。
もとは青森の農家の二男だか三男で、高度経済成長期と前後して、仕事を求めて東京へ出てきた。

彼や東北地方から単身上京して来た人達が住み着いたのが、北の玄関口である上野周辺のドヤ街だ。
(同じようにして南から出てきた人達がホームタウンとしたのが川崎周辺らしい。確かに両地域の雰囲気は良く似ている。)

彼らは建築関係の日雇い仕事をして、日銭で飲み食いし、宿代を払うという生活を繰り返し、徐々に歳をとり、身体は磨耗し、同時に日本経済は衰えていった。

「今は土木ではもう雇ってもらえないね。安くで働く若い外国人がたくさんいるから。俺なんて「あっち行け!」ってされる。今はアルミ缶を拾って生活している。値段?1キロ集めると70円で買ってもらえるんだ。俺はあんまり集めるの上手じゃないから一日で500円くらいかな。」

それでも、生活保護は受給したくないと彼は言う。
それが彼に残された最後の矜持なのだろう。

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人生は麻雀に似ている。
配牌から、上がっているようなラッキーな奴もいる。
勝負手を手堅くモノにして、逆転する奴がいる。
そしてときに、何となく切った牌で、役満を振り込んで、一気に転落することがある。

彼はどこかで牌を切り間違えたのだろうか?
働いて、日銭を稼いで、それで飲む。
その暮らしは、僕や貴方とそんなに変わらないはずだ。

もしやり直せるなら、どこから始めればいいのだろう?
離婚しなければよかったのか?
酒を飲まなければよかったのか?
些細なプライドの為に喧嘩して、仕事を辞めたのがよくなかったのか?
それとも、そもそも青森の農家の二男なんかに生まれたのが悪かったのか?

要は、配牌が悪かった。
そういうのは、自己責任なんだろうか?

救急外来のストレッチャーに腰掛けながら、身の上話をしたところで、次の搬送の入電があり、僕は彼を路上へと帰した。
去り際に握った彼の手は、大きくゴツゴツとした労働者の手で、それでいて握る力は儚いものだった。

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オリンピックもいいかもしれない。
海外からの観光客が増えるのも結構だ。
しかし、おもてなしの名の下に、彼のような人達は旅行者の目に付かないところに追いやられていく。

ここ、墨田区には渋谷区や豊島区、世田谷区をはじめとした、都内のあらゆる地域の生活保護を受給している人が集まっている。
何故か?
2002年の日韓ワールドカップの際に、海外からのメディア、観光客の目が届かない“東京右半分“へと、収容されたからである。

僕ら、一般生活者からすれば、彼らは透明人間だ。
そんな透明な人達がかつて作った道路を僕らは歩き、彼らがかつて作ったアパートへと帰る。路上に座り込む透明な人達の前を、素通りして。

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休み時間にコンビニでアイスを買って病院へ戻ると、入り口の隣に先ほど診察した路上生活者が座り込んでいる。
今月の生活保護費を3日前に使い切って、なにも食べていないと言っていた方だ。
僕は先ほど買ってきたガリガリ君を彼に手渡し、病院へ戻る。

彼が出たところに座っていることを看護師さんに伝えると、彼女はちょっとして様子を見に行く。ERでは冷たくしてもみんな、本心ではやはり気になるのだ。

「今、歩いて公園に帰っていきました。アイス美味しかったって伝えて欲しいそうです。」
もし彼に一時でも立ち上がる力を与えてくれるなら、これほど意義のある70円の使い道は他にないように思える。

救急車が一回出動する毎に、平均して6万円の税金が使われる計算らしい。
彼らが求めているのは、ささやかな食べ物と、暖かい毛布と、ちょっとした優しさで、それは救急車を呼んでも手に入らないけれど、仮に6万円あれば充分に満たすことのできる欲求だ。

どこかでボタンが掛け違えられている。
そう思いませんか?